「亜人」の最終巻17巻が刊行。
不死身の亜人の能力を活かして、自衛隊基地を占拠し、国会議事堂を始めとした日本の主要施設を破壊した怪物・佐藤と主人公・永井圭との戦いがついに決着する。
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最終巻の後記に「亜人は“見切り発車”でスタートした。」と、桜井画門先生が記している通り、本作はラストの方向性を計算して緻密に作られた作品ではない。
結局、亜人とは何だったのか、一応作中でオグラ博士の口からそれらしい仮説は語られているが、明確な答えは出されていない。
それとも、何らかの条件を満たしたところで亜人の性質を得るのか?
亜人になるのに遺伝は関係するのか、しないのか?
オグラ博士は、千年前か1万年前か、いつのことだかはわからないが、「人の心」が亜人を生み出したと語っているものの、どうして現代にだけ亜人は出現したのか?
歴史上、過去に亜人はいなかったのか?
亜人は、毒や負傷で死ぬことはないが、老衰では死ぬのか?
(下村泉は病気をリセットしていた)
といった疑問が浮かぶが、それらの答えはないままだ。
〇最終巻を踏まえて1巻を読み返す
さて、改めて1巻を読み直してみた。
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1巻は鼻を時折省略するデフォルメが強めの画風で、途中からの画風と比べると、ちょっと違和感を覚える。
また、1巻では亜人の“叫び”は金縛りを引き起こすという設定があったのに、いつの頃からか使われなくなっていたことを思い出した。
1巻を読み返してみて、主人公・永井圭は身体が不死身の“人でなし”であることに気づくが、思考についても合理的すぎて人間味が欠けており、精神的にも“人でなし”なキャラクターとして描かれている。
この肉体的にも精神的に“人でなし”の“亜人”である主人公が、情に厚い幼なじみの少年・カイや、病気の妹・慧里子との関わりを通じて、人間的な感情を獲得していくのが、この作品の当初の方向性だったのではないか、と推察できる。
しかし、カイは1巻で別行動になった後は、佐藤との最終決戦で主人公が“フラッド”を発生させるきっかけとしてしか、主人公と関わることはない。
妹にいたっては、回想シーン以外で主人公と直接会っているシーンはないまま終わる
この点を見ても、この作品は本当に“見切り発車”だったんだと思う。
〇主人公はどうして佐藤と戦わなければならなかったのか?
さて、連載開始当初の目論見とは違う方向になり、佐藤と戦うことが本作のメインストーリーになっていく。
とはいえ、主人公の永井圭は3巻くらいまでは、亜人の能力が発見されたことで佐藤との戦いに巻き込まれていくのだけど、佐藤から主人公に積極的に関わっていくのはそこまで。
以降、佐藤のスタンスは「永井くんがジャマしに来たら面白いかな」くらいになるので、主人公から佐藤に関わっていかないと、戦いが発生しない状況になっていく。
「亜人」と同じく、普通の高校生だったのに自身に異常な状況が降りかかる「寄生獣」の主人公・泉新一の場合は、他の人間の頭脳を奪った寄生生物たちから生命を狙われるという設定なので、本人の意志と関係なく戦わなければならない状況である。
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しかし、「亜人」の永井圭は違う。
物語序盤こそは巻き込まれたものの、途中からは佐藤との戦いから降りることが可能な立場になる。
なのに、永井圭は佐藤と戦い続けることを選択する。
最終巻の決戦にしても、日本で暴れ尽くし、遊び飽き日本から逃亡しようとする佐藤のことは放っておいても、永井圭の人生には影響がない。
むしろ、関わらない方がリスクが低い。
なのに、決戦を挑むのだ。
「楽しかったね」とほほ笑む佐藤の顔を思い起こしながら、
主人公・永井圭は佐藤に語り掛ける。
「あぁ、わかるよ。(中略)
でも遊びじゃない。(中略)
遊びで何かするってのは嫌いなんだ僕は。
ココ最近やってきたこと、今までしてきた勉強や医者になる目標だって
みんな本気だ。
本気で生きてんだ。
フザけてんじゃねぇよ」
ゲーム好きの佐藤は、亜人の性質に気づく前から人生を遊んでいる。
自身が不死身の亜人であると気づいてからは、無限コンティニューの裏技でゲームを楽しむようにフザけた生き方をするようになる。
一方、永井圭は亜人の性質に気づく前から、勉強に熱心過ぎて同級生から少し浮いている高校生である。
考えすぎる性格を、同じ亜人の中野から「生き辛そうな奴」と評されることもある。
つまり、いつだって本気で生きている永井圭にとって、不死身だからとフザけた生き方をしている佐藤は許容できない存在だった。
だからこそ、永井圭は佐藤と決着をつけなければならなかったのだ。
〇何度でも立ち上がる「その生物」とは?
最終巻の裏表紙には以下の文章が記されている。
「その生物は
何度でも
立ち上がる
何度でも
何度でも――」
一見すると、「その生物」というのは、不死身の亜人のことを言っているように思える。
しかし、佐藤との最終対決時に永井圭は、
「体温、皮膚、筋肉、その奥の骨格、鼓動。
そうさ、お前は超人でも怪物でもない。
肉体のシステムからは逃れられない。(中略)
佐藤、
お前は――
ただの人間だ」とのセリフを思う。
亜人には肉体を修復する能力とIBMを出す能力があるが、その能力を除けばただの人間といっているのだ。
亜人≒人間 という図式が成り立つのであれば、裏表紙で言及されている何度でも立ち上がる「その生物」も「人間」を指しているとみることができる。
最終巻のラストシーンは唐突に永井圭がトラックにひかれた後、立ち上がるところで終わる。
なんだかギャグのようなシーンで終わるのだけど、主人公が
「まぁ、いいさ。
まだまだコレからだ。
行くぞ!」と自身を鼓舞して終わることに意味があるのだと思う。
「亜人」というマンガは、
・人間は不死身の能力と関係なく、何度でも立ち上がることができること
・そのためには本気で生きなければならないこと
ということを描いたマンガだったのでは、と思うのだ。