映画「すずめの戸締まり」を観に行ったので、感想などを記していく。
重要なネタバレはないように配慮しているつもりながら、一部設定やストーリーなどには触れているのでご容赦を。
来場特典として、監督インタビューや設定資料を掲載した冊子「新海誠本」がもらえた。
テーマは東日本大震災
物語は、冒頭で謎の猫・ダイジンにより椅子に姿を変えられた青年・草太を元に戻すべく、主人公・鈴芽の住む宮崎から愛媛、神戸、東京とダイジンを追って旅をしていくストーリーだ。
この間、行く先々で草太の仕事であった「後ろ戸」というドアを閉じていく仕事をしていくことになる。
「後ろ戸」が開くと、その場所に地震が発生してしまうのだ。
愛媛、神戸と親切な人たちの助けを得ながら、「後ろ戸」を閉じていくのだが、この辺りは、同じことの繰り返しのように思えて、少し退屈に感じた。
そして、東京で「後ろ戸」を閉じた後、主人公は東北に向かう。
この作品について、事前の情報をほとんど収集せずに行ったのだが、ここでテーマが東日本大震災であったことに気づいた。
そういえば、愛媛は2001年に芸予地震、神戸は1995年に阪神・淡路大震災が、東京は大正時代に関東大震災があった地である。
「東日本大震災」とはっきりと名前は出てこなかったが、「東北」「3.11」「12年前(2022年からするとまだ11年まえだが)」と明らかに東日本大震災を指し示すものがいくつも出てきた。
「君の名は。」では彗星落下、「天気の子」では気象災害と、どちらも大きな災害を扱っていたものの、どちらも架空の災害だった。
それが「すずめの戸締まり」では、東日本大震災という現実の災害、それも何十年前の風化した災害ではなく、まだ記憶に新しい人も多い災害を描いていた。
実在の災害をテーマにするということは、「これは完全なフィクションです」「ファンタジーです」との言い訳ができない状態である。
前2作での災害の扱いと違い、災害に対して踏み込む覚悟が制作陣にあったのだと思った。
本作は、生々しい津波映像などが出ることはないし、震災を“無かったことにする”というような矮小化することはない。
そのため、ブログ管理人としては、本作が震災を冒とくしているようには感じなかった。
とはいえ、それは震災の被災者ではなく、近しい人に被災者もいない人間の感想である。
当事者である人が観に行く場合には、震災を扱っていることを知った上で観た方が良いかもしれない。
(後に公式から、そのような注意が出ていることを知った)
男性は頼りない?
本作を観ていて思ったのは、男性のキャラクターが総じて頼りなく描かれていたことだ。
もう一人の主人公・草太は、序盤で椅子にされてしまい、「後ろ戸」を閉める役目は、鈴芽にやってもらうことになる。
しかも、後半はわけあって出番が激減するので、活躍の機会は少ない。
鈴芽が旅先で出会い、親切にしてくれる人たちはみな女性だ。
一人で旅をする(と周囲からは見える)女子高生を家に泊めるなど、下心なく親切にするには、男性より女性の方が自然ではあるが、男性はほとんど助けてくれない。
唯一、草太の友人・芹澤だけが車で長距離を送ってくれるものの、彼のキャラは親切心から巻き込まれて貧乏くじをひいてしまったようなキャラなので、ちょっと頼りがいはない。
「後ろ戸」について詳しい草太の祖父は入院中で動けない。
幼少時の鈴芽が探すのは。「お母さん」であり、「お母さんとお父さん」ではない。
鈴芽の叔母・環の同僚・稔も、どこか頼りなさげなキャラとして描かれている。
と、以上のように、男性陣はなぜか頼りない感じにしか描かれていない。
この理由がなぜなのかは思い至らなったが、カッコ良い男性が活躍することを期待すると肩透かしにあうことになるので、ご注意を。
|
死者は励ましてくれない
本作の「後ろ戸」の向こうは、「常世」という現実ではない世界につながっている。
こういったファンタジー作品では、「常世」で今はもう亡くなった思い出の人に再会し、
「わたしはもう大丈夫。これからはあなた自身の幸せのために生きていきなさい」と主人公を励ますというのが、よくある定番の着地点である。
本作でも、そのように着地させることは可能であった。
だが、本作では死者に出会うことはなかった。
これについては、実在の震災を扱っており、大切な人を亡くした経験を持つ観客も少なくない。
その人たちに向けて、安易に死者と再会できると描くのは酷だと考えたのではないかと推察する。
亡くなった人にはもう会うことはできない、自分を勇気づけるのは最終的には自分自身しかないというのが、クライマックスのシーンだったのではと思った。
すずめの戸締まり (角川つばさ文庫)【電子書籍】[ 新海 誠 ]
|
自転車のカギを開けて進みだす
この物語はタイトルにある通り、戸締まりをしていく話だ。
物語の冒頭、主人公・鈴芽が学校に向かう際、家のカギを閉め、自転車のカギを開けるシーンが描かれる。
物語のラストでも、同じようなシーンが描かれ終わる。
この家のカギを閉め、自転車のカギを開けるシーンをわざわざ手元のアップで大きく描いたのは、この物語が震災の過去に決着をつけてカギを閉めるだけではなく、新たにカギを開けて、前に進みだす物語であることの象徴なのではないかと思った。